紙への道 : 紙以前
初めに
人類が紙にたどり着くまでには、いくつかの段階があった。最初の記憶は、人の身体の中にあった。人々は、経験や知恵を言葉、歌、踊り、儀礼、物語として覚え、年長者から若い世代へ語り伝えた。
しかし、共同体が大きくなり、農耕や交易が始まり、穀物・家畜・土地・税・契約などを正確に管理する必要が生まれると、人の記憶だけでは足りなくなった。そこで結縄、刻み目、印、絵、記号などを使い、記憶を身体の外に残す工夫が始まった。 つまり、紙への道は、単に書写材料の歴史ではなく、人間が記憶を外に出し、共有し、保存し、次の世代へ渡そうとした歴史でもある。
1.文明の発祥と文字の発生ー記憶から記録へ

古代の人達は、意思を伝えるために「話すこと」を始めました。それから、記憶を頼りに口伝で語り伝える方法を取る一方、記憶だけでは伝えきれないこともあり、話し言葉を絵や文字に表す方法を身につけるようになりました。文字や紙が生まれる前、人は記憶を助けるために、縄に結び目を作って数や約束を残しました。これを結縄(けつじょう)(図1)といいます。結び目は、単なる飾りではなく、情報を残すための道具でもありました。結縄は、文字ではないが、数や約束、出来事を思い出すための補助記号であった。ここでは、記憶はまだ完全に物に移されたわけではなく、人の記憶と結び目が一体となって意味を持っていた。これは、口承から記録へ向かう中間的な段階といえる。
人類は、声で伝え、結び目や刻み目で記憶を補い、やがて絵や文字を生み出し、その文字を残すために石・骨・粘土・木・布・皮・植物の葉を使い、最後に紙へとたどり着いたのです。身の回りにある、簡単に手に入れることが出来る材料を工夫しながら、人の記憶力をも含めた、人間の記憶そのものを含め、さまざまな記録の方法が考案されました。
また、古代の人達が自分の意思を伝え、記憶に残すために用いた方法は、岩や石や獣骨や貝や木の幹や板など、天然の平滑な表面に、絵を彫ったり描いたりする方法がとられました。ショーヴェ(図2)やアルタミラ、ラスコーなど、フランスやスペインで先史時代の洞窟壁画が発見されています。これらのものは絵の祖先であるばかりでなく、文字の成立に向かう重要な前段階とも考えられます。人類の知恵の間断なき発達につれて、意思を表す絵画から絵画文字が生まれ、象形文字・表意文字・表音文字へと考案される遠因になりました。

文字以前の人類が、動物の姿を
壁面に描き、記憶や祈りを視覚化した例である。
洞窟壁画は、単なる絵画ではなく、狩猟、動物への畏れ、祈り、共同体の記憶を視覚化したものとも考えられる。ここでは、声で語られていた記憶が、岩壁という外部の面に移され始めている。これもまた、後の文字や書写材料へ向かう重要な前段階であった。
2.石・骨・粘土・木に刻む時代
書く道具の変化――刻む道具から筆へ
農耕が始まり、都市が生まれると、人間は多くのものを管理しなければならなくなった。収穫した穀物、家畜の数、土地の境界、税、労働、契約、王の命令、神への供物などは、個人の記憶だけでは正確に保つことができない。そこで、記号を刻み、文字を書き、記録を保存するための素材が必要になった。
紙以前の記録媒体は、石・骨・粘土・木・竹・布・皮など多様であった。それぞれの素材に応じて、用いられる道具も変化していった。石や骨には鋭い道具で文字や記号を刻み、柔らかい粘土板には葦の茎を削った筆記具を押し当てて楔形文字を記した。木簡や竹簡には、刀子で削った面に墨で文字を書き、誤りがあれば表面を削って書き直すこともできた。
メソポタミア、エジプト、インダス、中国などの古代文明では、紙以前の記録媒体を通じて、文字の使用と記録の方法が発達した。これらは後の印刷術や造本につながる前段階としても重要である
メソポタミアでは、シュメール人が太陰暦や六十進法を用い、楔形文字(図3)を発明した。柔らかい粘土が乾く前に、葦の茎を削った筆記具で文字を押しつけることで、粘土板に記録を残した。粘土板は重く、かさばる欠点はあったが、乾かせば固まり、焼けばさらに丈夫になった。そのため、穀物・家畜・税・契約・所有・命令などを管理する実務的な記録に広く用いられた。

また、シュメール人は円筒印章を用い、柔らかい粘土の上に転がして模様や印を残した。これは、文書の証明や所有の表示だけでなく、権力や身分を示すものでもあった。後の時代には、アケメネス朝ペルシアのダレイオス一世が、自らの即位の経緯と正当性を主張するため、イラン西部にベヒストゥーン碑文を残した。これは、石に刻まれた王権の記録であり、文字が単なる実務記録を超えて、政治的な意味を持つようになった例といえる。

インダス文明については、なお未解読の部分が多い。しかし、計画的に造られた都市遺跡から、青銅器、彩文土器、印章などが出土しており、その印章や粘土板にはインダス文字と呼ばれる記号が刻まれている。ここでも、交易や所有、宗教的な意味を持つ記号が使われていたと考えられる。
インドでは、書写材料として貝多羅葉と呼ばれる植物の葉が用いられた。これはシュロ科の多羅樹の葉を加工したもので、小刀や錐のような道具で文字を刻み、上下を板で挟んで保存した。石や粘土とは異なり、植物の葉を記録媒体にする発想は、後の軽く薄い書写材料へ向かう流れの中で注目すべきものである。

篆書体で書かれた
中国では、黄河流域や長江流域に古代文明が発達し、殷の時代には、占いの記録として亀の甲羅や牛・鹿などの骨に甲骨文字が刻まれた。これは漢字の原型ともいわれるものであり、文字が祭祀や政治と深く結びついていたことを示している。その後、文字は青銅器に刻まれる金文、石碑に刻まれる石刻へと広がり、篆書、隷書、草書、行書、楷書へと発展していった。
秦の始皇帝が残した始皇七刻石などは、石に刻まれた文字によって国家の統一や権威を示した例である。青銅器や石碑は、長く残すためには優れた素材であったが、日常的な記録や長い文章を書くには不便であった。そのため、中国では木簡や竹簡が広く用いられるようになった。
木簡と竹簡をあわせて簡牘という。簡牘は、紙が登場するまで、書籍、文章、帳簿など多くの記録に用いられた。木簡と竹簡の違いは、材料の違いだけでなく、用途の違いにも関係していたと考えられる。各種の証明書、命令書、通行証、短い公文書など、一枚で完結するものには木簡が用いられ、書物や簿籍のように多くの文字を連ねるものには、竹簡を紐で編んだ編綴簡が用いられた。
このように、古代文明における記録媒体は、それぞれの地域で手に入りやすい素材と深く結びついていた。粘土の多い地域では粘土板が使われ、石や骨は儀礼や権威の記録に用いられた。竹や木が得られる地域では、木簡や竹簡が発達した。文字の発生は、単に人間が言葉を記号化したというだけではなく、その記号をどの素材に、どの道具で、どのように残すかという技術の発展でもあった。
しかし、これらの素材には共通した限界があった。石や骨、粘土板は丈夫で長く残るが、重く、かさばり、持ち運びに不便であった。木簡や竹簡は比較的扱いやすかったが、長い文章になると多くの簡を束ねなければならず、やはり重くなった。記録する内容が増え、文章が長くなり、遠くへ運び、保存し、読み返す必要が高まるにつれて、人々はより軽く、薄く、扱いやすい書写材料を求めるようになった。
やがて絹布やパピルス、羊皮紙のように、より薄く柔らかな書写材料が用いられるようになると、文字は「刻む」ものから「書く」ものへと変わっていった。筆、葦ペン、鉄筆、墨、インクなどの発達は、記録媒体の変化と切り離すことができない。つまり、紙の誕生は素材だけの問題ではなく、文字を書く道具と書き方の変化とも深く結びついていたのである。
3.紙に近づく書写材料―パピルスと羊皮紙
石や骨、粘土板、木簡・竹簡は、記録を残すために重要な素材であった。しかし、これらは重く、かさばり、長い文章を記したり、遠くへ運んだりするには不便であった。
そこで人々は、より薄く、軽く、持ち運びやすく、文字を書きやすい素材を求めるようになった。その代表が、エジプトで発達したパピルスであり、後に地中海世界で広く用いられた羊皮紙である。
パピルスは植物の茎を薄く重ねて作られたシート状の書写材料であり、羊皮紙は動物の皮を加工して作られた丈夫な書写材料であった。どちらも現在の意味での紙ではないが、「薄い面に文字を記し、保存し、運ぶ」という点で、紙に先立つ重要な素材であった。
パピルス

エジプトではメソポタミアの影響を受けながら太陽暦を考案し、ヒエログリフの文字体系を確立し、文明末期にはロゼッタストーン碑文を残しまし た。しかし、エジプト人は石や粘土板だけでなく、紙と同類視されているパピルス(Cyperus)(図4)を筆記材料に考案しました。エジプト人は、シートを形成するためにパピルスを薄く剥ぎ、重ねて圧搾機で 圧搾し、シート状にして、プトレマイオス朝時代には、エジプトからの輸出品として各地に広まり、フェニキア人の都市ビブロス(現在のレバノンのジュバイル)がそのギリシャ向けの積み出し港だったのでビブロスの名がパピルスを意味する語になったとされています。しかし、パピルスは行政・商業・宗教・文学など幅広い記録に用いられました。紙に近い性質を備えた初期の書写材料はパピルス(図7)でした。紙そのものではないが、薄く、軽く、文字を書くことができるシート状の記録媒体として、紙に先行する重要な素材でした。ギリシアの単語('papyros')は英単語の'紙'の原語です。エジプト人は、シートを形成するためにパピルス(Cyperus)草を薄く剥ぎ、重ねて圧搾機で圧搾し、シート状にしました。プトレマイオス朝時代には,エジプトからの輸出品として各地に広まりました。フェニキア人の都市ビブロス(現在のレバノンのジュバイル)がそのギリシャ向けの積み出し港だったのでビブロスの名がパピルスを意味する語に、また本を意味するようにもなり、現在英語で聖書を意味するBibleという言葉もそこから来ているとされています。

後に小アジアのヘレニズム国家、ペルガモン王国に対する禁輸がもとで同国で羊皮紙の生産や文芸書への使用が奨励され、使いやすい羊皮紙が生産されるようになりました。羊皮紙も高価ではあったが強度があり両面に書けるなど冊子としての利用に適していたので、エジプトから遠い地方で普及しました。800年頃に中国から紙の製法が伝わるとやがてパピルスは使われなくなりました。
羊皮紙(パーチメント)又は鞣皮紙そしてヴェラム(Vellum)
羊皮紙は羊などの動物の皮を加工して出来たシート状のものです。鞣皮紙と呼ぶ場合もありますが、通称的には羊皮紙と呼ばれる場合が多いので羊皮紙とします。古代から文学や神聖な文書の筆写に使われてきました。エジプトや小アジアの一部ではより安価で入手しやすいパピルスを使いましたが、これはエジプトほど気候が乾燥していない土地では傷みやすく黴などに侵されやすかったために、序々にパピルスは羊皮紙に置き換わって行きました。またパピルスは表裏で繊維の方向が違うため裏面には書き辛く、反面羊皮紙は両面を同様に使うことが出来たし、特筆することは、パピルスの巻物から羊皮紙の冊子へとの劇的変化は、冊子の利便性に他ならないと考えられます。
巻物から冊子へ――読む形の変化
巻物は長い文章を連続して記録するには適していたが、目的の箇所を探すには、最初から順に巻き戻したり繰ったりしなければならなかった。これに対して、冊子はページをめくることで必要な箇所をすぐに開くことができ、前後を比較したり、複数の箇所を参照したりすることが容易であった。
また、冊子は表紙を付けて保護し、重ねて保管し、書棚に並べることができた。これは単に形が変わったというだけでなく、知識を保存し、探し、読み返す方法そのものを変えた出来事であった。後に紙が広く使われるようになると、この冊子の形はさらに普及し、現在の本の基本的な形へとつながっていった。

巻物より場所を取らないし、積み上げるか書棚に保管することができました。興味のあるページを開き、拾い読みができるし、付箋をつけながら関連した箇所を考察しながらページをめくることが出来ます。今、デジタル化といえども書籍が残っているは、多くの特質があるからといえます。
2世紀頃、ペルガモン図書館の蔵書はパピルスから羊皮紙に置き換えられていきました。羊皮紙は紙と違ってインクが染み込みにくいので書き損じは削って直すことができたし、公文書などが改竄されることがしばしばありました。古い写本の中には表面を削って再利用された事象が散見されます。このように再利用された写本のことをパリンプセスト (palimpsest) と呼び、状態によっては元の文書が判読可能な場合がありました。
御多分にもれず、十三世紀ごろから紙に取って代わられ羊皮紙の需要も減少していきました。しかし、特別な用途である外交文書や証書には現在でも使われることがあり、一般的には特装本の装丁などに使われていることを見ることができます。
ヴェラムは、狭義には子牛の皮から作られたものを言いますが、広義には羊皮紙(パーチメント)のなかに分類されて呼称されることもあります。元来の意味は犢皮紙(とくひし)ということで犢(こうし)の皮の装丁材料の一種でした。しかし現在のヴェラム・ペーパーと呼ばれているものは、明治の初期に印刷局抄紙部が三椏を手漉きした鳥の子紙を局紙として、パリ万国博(第3回)に出品し、その後欧米に輸出し始めました。この紙を欧米ではジャパニーズ・ヴェラム[1]と呼ばれ珍重されました。局紙とは、和紙にしては厚手の紙で三椏皮を用いて抄紙され、表面が平滑で光沢があり、質は堅牢で淡黄褐色で日本では鳥の子と呼ばれ、欧米ではその色からの類似性からヴェラムと呼称されたと考えられます。
「紙に似ているが紙ではない素材」の比較表
| 素材 | 主な地域 | 原料 | 作り方 | 紙との違い |
|---|---|---|---|---|
| パピルス | エジプト | パピルス草 | 茎を重ねて圧搾 | 繊維を水中でほぐして漉かない |
| 羊皮紙 | 地中海・欧州 | 動物皮 | 皮を加工 | 植物繊維ではない |
| 貝多羅葉 | インド・東南アジア | ヤシ類の葉 | 葉に刻む | シートを漉かない |
| 樹皮布 | 太平洋・中南米など | 樹皮 | 叩いて広げる | 抄紙とは異なる |
| 絮紙 | 中国 | 絹繊維 | 繊維を薄く広げる | 過渡的な素材 |
| 紙 | 中国以後 | 植物繊維・古布など | 水中分散して漉く | 現代的な紙に近い |
4.樹皮紙から紙へー樹皮布(Barkcloth)[2]と樹皮紙
紙は、文字を書くためだけに突然発明されたものではなく、人間が植物繊維を衣服・包材・儀礼具・記録媒体として使いこなしてきた経験の延長線上に生まれました。人はまず、植物の繊維や獣皮を、身を守るための衣服や敷物、包むための素材として利用しました。やがて繊維を裂き、撚り、糸にし、織ることで布が生まれました。一方で、樹皮や繊維を叩き広げ、薄い面を作る技術は、布とは別の方向に発展し、記録や儀礼に使われる紙的な素材へと近づいていきました。つまり紙は、文字を書くためだけに生まれたものではなく、人間が繊維を生活の中で使いこなしてきた長い経験の延長線上に現れたものと言えます。
木の樹皮(靭皮)は、織物が考案される以前から各地域の文明の発展の段階で、何らかの装飾的な加工をなされるか、或はそのままの形態で衣料や包装材として使われていました。ある文明では衣料用の織物として発達する一方、樹皮布として残ったものもあります。只、紙として樹皮紙を考える場合、樹皮布とのその区別は曖昧なもので、使われ方が布として使われたか、紙としての用法で使われたかでの区分でしか判断出来ないように思えます。
樹皮布を現在の紙と比較しながら古くからの材料を調査するのは人類学的にも、植物学的にも興味深いものです。樹皮布が

作られた社会では、それは紙や布と同様に日常生活や宗教の儀式の一部として使用されました。中南米とアフリカでは、樹皮布が衣服になり、又、インドネシアやメキシコでは巻き物や本に使われる紙のように使用されました。それは、宗教的で儀式的な目的に使用されて、ある時には神聖であり重要な物と考えられました。ヨーロッパの織物が、ある時に導入された領域でも、樹布の使用がしばらくは好まれていました。
中国では、記録が紀元前6世紀以前から樹皮布の生産の記録が有り、衣服と軽い鎧兜にさえ使用されていました。中国の一部の地域で20世紀まで製造が続きました。
言語学的に、中国の一部、インドシナおよびポリネシアで樹皮布と呼ばれている言葉は、非常に類似した発音で使われています。中国では、桑の樹皮を剥ぎ、叩き、フェルト状にした樹皮布を説明するのに'tapu' 或は'tafu' 或は 'kupu' 或は'kapu'と呼んでいます。インドシナでは、 'tap' 或は 'khou'は’叩く'という意味で、'tapu'或は'khoupu'は叩くか、フェルト状になった樹皮布の事を言います。台湾の原住民の言語で、接頭語の'tap'は、'布'を意味する時に用いられました。ポリネシア(ハワイ)では、樹布が'kapa'('タパ布'の'T'がハワイの言語の'K'に変わります)(図8)と 呼ばれました。イヌイットは一種の樹皮布を作るのにクジラの骨を打ち棒(Beater)にして使用しました。そして、その技術は彼らの先祖がアジアの北地域に移動して伝搬して行きました。 アフリカで樹布を作る技術は東南アジアからの移住者によって、マダガスカル経由でもたらされました。 ほぼ同じ頃、これらと同じ人々の別のグループは南方に移動して太平洋諸島に伝搬しました。 この移動は、およそ7,000から9,000年前に始まって、およそ3,500年前まで続きました。 (文明の発展段階で衣料として使われる)
移動ルートは考古学あるいは民族学的に見て、中国から東南アジアを経てインドネシアまでたどることができます。次にそれがニューギニアの北岸に沿ってソロモン諸島とフィジーに伝わりました。それからトンガとサモアと東太平洋(ニュージーランドとハワイ)へと伝搬しました。 これらの移住者はたぶん彼らの生活に必要不可欠であった技能、動物および植物を携帯しました。その植物の1つに熱帯の気候に順応しました桑や楮(Broussonetia papyrifera)が含まれていたとされています。
インドネシアには、カジノキ(梶の木,学名:Broussonetia papyrifera)の樹皮から作られたダルワン樹皮紙(Daluwang、バリ島ではウランタガ Ulantaga、スラウェシ島ではフヤ Fuya)を使う文化圏が3か所あったと考えられています。それぞれの樹皮布/樹皮紙は、新石器時代(出土遺物の年代は3500-4000年前頃)にフィリピンの島々を通り、オーストロネシア語族により伝来されたとされています。 現在、二セットしかインドネシアに残っていないジャワの伝統影絵劇ワヤン・ベベール(Wayang Beber:絵巻物)(図9)は、800 年ほど前のヒンドゥー王朝時代に始まったとされ、いずれも樹皮紙の上に描かれています。ワヤン・ベベールは、幅 80 cm、長さ 4 m ほどだが、継ぎ目が一切見当たらず、全面が手が透けるほどの均質な薄さの巻物状であり、見事な彩色の絵物語が描かれています。

メキシコ、中南米の人は'huun'、'amate'または'amatl'と呼ばれる紙のような樹布を作りました。 桑(moraceous)の木の内側の樹皮を打ち棒で叩き伸ばしてシート状にしました。 スペイン帝国に征服される前までアステカ帝国間の通信、記録、儀式に使用する為に広く生産されました。
この樹皮の '布'と言う言葉を説明するのに繊維の組成を観察して、 多くの研究者がきめ細かく人工の樹布と紙の類似性を論表しました。只、布であろうと紙であろうとも、それぞれの時代ギャップを考慮する必要があります。樹皮が布として使われ始めたのは遥か有史以前からであ り、植物繊維を紡いで衣料を制作する以前から、楮を叩いてフェルト状にすることを発見してのち、獣皮の代わりに用いられたと想像します。絵文字や記号を記録する為に、紙が発明される前までは、多くの工夫を凝らして、適性を付与しながら、各地同時発生的に紙にも匹敵するような樹皮紙が作られたのは人類の固有の知恵かも知れません。
5.東洋の紙以前
5.1 木簡、竹簡

中国では紙が考案される以前までは、竹に文字を書いた竹簡(図10)が主流で、単に簡や簡牘(かんとく)といえば竹簡を指しました。しかし黄河流域以北では木簡も広く用いられていました。これは竹の入手が容易でなかったと言う地域性を考慮しなければなりません。紙が普及していない漢代まで、木簡・竹簡は文書の記録材料として広く用いられていました。木簡と竹簡の相違は、その用途の相違によるものとも考えられます。つまり、各種の証明書や検・檄・符などの単独簡として用いられる簡には木簡が用いられ、それに対して、書物や簿籍などの編綴簡には竹簡が用いられている、という出土状況から、そのように考えられています。漢代の一般的な簡牘は長さ一尺(23cm)、皇帝用の簡牘は長さ一尺一寸(25cm)、経書用の簡牘は二尺四寸(55cm)と、用途に応じた定型で作られ、文章が長くなるときにはつづりあわせて冊(編綴簡)にしました。紙が普及しはじめた魏晋の頃には、文書に紙と木が併用されていました。公式的な長い文書には紙が使われ、特別な儀式を除き簡を束ねて冊を作ることはしなくなり、そのせいで木簡は一枚で完結する文書に用いられ、形の規格がなくなりました。
日本に於いて木簡は、7世紀後半から、奈良時代と平安時代の10世紀までを中心に使われました。日本に文字が入ってきたとき、中国では既に紙が普及しつつあり、紙と木簡・竹簡が併用されていました。日本もそれを踏襲し、比較的短い文書についてだけ木簡を使っていました。すべての文書に紙を使わなかったのは、当時まだ紙が高価で需要を満たすに足りなかったためと考えられます。日本では竹簡は作られなかったと言われています。
5.2 布帛(ふはく)

紙が普及する以前、中国では、帛(はく)と呼ばれる絹布が高級な書写材料として用いられていた。古代中国では、麻類の織物を「布」、絹織物を「帛」といい、これらを合わせて布帛(ふはく)と呼んだ。絹織物の起源については、蚕が初めから絹糸を取るために利用されたのか、あるいは繭を広げた真綿として保温材に用いられたのか、なお検討を要する点もある。(図11)しかし、中国で養蚕と絹織物の技術が早くから発達したことは確かであり、新石器時代以来、繊維を撚り、糸にし、織物にする技術が蓄積されてきた。
紙の成立を考えるうえでは、このような繊維利用の長い経験が重要である。中国では、甘粛省額済納河流域の漢代遺跡から出土した査科爾帖紙(中国語:查科尔帖纸)など、蔡倫以前または蔡倫に近い時期の古紙片が知られている。これらは、紙が一人の人物によって突然発明されたのではなく、繊維を薄い面状にする技術の蓄積の上に成立したことを示している。
『後漢書』蔡倫伝には、古くは書物や文書の多くが竹簡に記され、縑帛(けんぱく)を用いたものを「紙」と呼んだ、とある。ここでいう縑帛は、現在の紙のように繊維を水中で分散させて漉いたものではなく、絹布を文章の長さに合わせて裁り、書写材料としたものである。絹布は軽く、巻いたり折り畳んだりでき、墨で文字や図を記すことができたため、竹簡・木簡に比べて高級で扱いやすい記録媒体であった。(図22)

また、『説文解字』には「紙,絮一苫也」とある。ここでいう「絮」とは、繭や古い絹布から得られる真綿状の絹繊維を指す。絮は本来、衣服や寝具の中綿、保温材、包み材として用いられた生活素材であったが、これを水中でほぐし、簀の上に薄く広げることで、紙状のものが得られたと考えられる。これを絮紙(じょし)と呼ぶことがある。
さらに、魏の張揖が著した『古今字詁』には、蔡倫以後の紙について、「帋(し)」または「今紙」とし、絹布を用いた古い書写材料を「幡紙(はんし)」または「古紙」とする説明が見える。つまり、古い時代には絹布を裁って用いた書写材料を紙と呼ぶことがあり、蔡倫以後には、古布・麻・樹皮などを叩いて漉いた紙が普及していったのである。魏晋時代以降、蔡侯紙が広まるにつれて、「帋」と「紙」を区別する必要は薄れ、しだいに「紙」の字に統一されていった。
このように、古代中国における「紙」という言葉は、現在の紙よりも広い意味を持っていた。絹布を用いた縑帛や幡紙、真綿状の絮を広げた絮紙、そして蔡倫以後の漉き紙は、いずれも「薄い面に文字や図を記す」という点で連続している。しかし製法から見れば、縑帛は織物であり、絮紙は絹繊維を薄く広げた紙状素材であり、蔡倫以後の紙は植物繊維や古布を叩いて漉いたものであった。
絮紙は、織物でもなく、木簡や竹簡でもなく、繊維をほぐして薄く広げるという点で、紙にきわめて近い存在であった。ここに、繊維を面として再構成するという発想が現れている。蔡倫以後の紙は、このような繊維利用の経験を、植物繊維や古布を用いた実用的な抄紙技術へと発展させたものと見ることができる。
なお、絹は紙の普及後も姿を消したわけではない。絹布は書写材料としての役割を紙に譲ったが、絵画の支持体としては長く用いられ、現在でも日本画や墨画では、絹地に描かれた作品を「絹本(けんぽん)」と呼んでいる。
5.3 貝多羅葉(バイタラヨウ)
ヤシなどの植物の葉を加工して、記録媒体として用いられた。仏教の経典に用いられたことでインド、パキスタン、タイなど各地に伝播した。(図11)

pattra(葉の意)の音写。貝多羅樹とも、貝葉ともいう。ターラ(tala 多羅樹)の葉で、古代インドではこれを紙の代わりに用いて、この上に針(鉄筆)で経文を彫って書物として保存した。棕櫚の葉に似て、幅七~八センチメートルぐらいで、葉質が堅くて密である。
ここでは「古代インドでは」とあるが、南伝仏教の世界ではもっと近年まで用いられていた。「紙の普及によって写経は一部紙に替えられたが、伝統的な聖典の観念は、チベットや南方諸国のように貝葉本にあり、いまだにそれがもちいられている」という。この「いまだに」というのは、現在まで含むにせよ、どのレベルでの使い方を指すのかは判らないが、東南アジアの寺院では少なくとも19cには用いられていた。森鴎外『航西日記』明治17年9月18日条では、コロンボの寺院に蔵されている貝多羅を鴎外が目した旨が記されている。市内観光の途次に一寺院に立ち寄るくだりに「一仏寺に入る。釈迦涅槃像有り。陶盤に華を供す。香気、堂に溢る。僧の貌、阿羅漢像の如し。黄なる袈裟を挂け、革鞋を穿く。寺院には貝多経を蔵し、字は巫來由体を用ふ。此の地、釈迦隆興の所なり」(原漢文)とある。ここに見られる「貝多経」が貝多羅のことである。思うに、現在では広く一般に普及している経典は紙に記されているにせよ、寺院などではより聖なるものとしての認識により、貝多羅が保存されているということであろう。
6.ライスペーパー

余談ながら、欧米で“rice paper”と呼ばれてきた東洋の薄い書画材料は、米からは作られていません。それは カミヤツデ(Ricepaper plant、Tetrapanax papyriferum)(図12)の木の髄から桂剥き(らせん状)に剥かれたものです(この木は台湾と中国の南部に生えます)。 この材料は中国の書画に使用されました。和紙について言及するとき、多くの人達が日本の ' ライスペーパー’という用語を使用しますが、三度の食事に出される以外、「米」が和紙の製造に使われる事はなく、全くの誤りです。茎の髄から通草紙(つうそうし)という造花や書画に使い、用途からすると紙の一種と考えられていました。
乾隆皇帝の22年目に、広州は唯一の対外貿易港として指定され、中外貿易と文化交流の重要な場所になりました。 18世紀と19世紀に多くの西洋の画家が絵を描くために広州に来たため、当時の中国の画家が影響を受けました。 西洋の絵画技術を習得し、地元の習慣に精通していたこれらの広州の画家は、西洋の好みに沿って海外に販売された絵画を描きました。

通草紙に描かれた絵を通して、当時の中国の社会的慣習や天然資源を記録し、外国人が清王朝を理解する方法の一つになりました。 通草紙の絵は1820年頃に普及が始まり、1880年にピークに達しました。その後、写真技術の普及に伴い、急速に衰退して絶滅しました。
蛇足になりますが、江戸時代には米を擦り潰し、紙に入れたと言われています。幼稚な漂白方法しか持っていない時代の工夫かも知れません。紙に白色を向上するために米粉を混抄したとも、平滑度や疎な繊維間を埋めるための効果を期待して使用されたと記録があります。
江戸時代の浮世絵紙には、その痕跡が残っていると記録されています。
通草奇画


図 13通草紙1
7. 紙以前の結び
紙は、単なる書写材料の発明ではなかった。
それは、人間が自分の記憶を身体の外へ出し、共同体で共有し、遠くへ運び、後の世代へ渡すために求め続けた「記憶の面」であった。
人はまず、言葉や歌や物語によって記憶を伝えた。やがて、結縄や刻み目、洞窟壁画、印章、文字によって、記憶を物の上に残すようになった。石に刻み、粘土に押し、骨や木や竹に記し、葉や皮や布に書いた。それぞれの素材は、その時代と地域において重要な役割を果たしたが、同時に重い、かさばる、高価である、傷みやすい、扱いにくいといった限界も持っていた。
その長い試みのなかで、人間は次第に「薄く、軽く、書きやすく、持ち運びやすい面」を求めるようになった。パピルスや羊皮紙はその要求に応えた素材であり、樹皮布や絮紙は、繊維を薄い面にするという点で紙に近い存在であった。しかし、現在の意味での紙が画期的であったのは、植物繊維や古布を水中でほぐし、繊維を分散させ、それを簀の上にすくい上げて一枚の面として再構成した点にある。
つまり紙とは、自然の葉や皮や布をそのまま用いたものではなく、いったん繊維に戻し、再び人間の手で薄い面に作り直した素材であった。この「繊維をほぐし、漉き、乾かして面を作る」という技術によって、紙は軽さ、柔らかさ、量産性、書きやすさを兼ね備えた新しい記録媒体となった。
この発明によって、記録はより身近なものとなり、文書、書物、絵画、宗教、行政、交易、教育へと広がっていった。そして中国で成立した紙の技術は、やがて朝鮮半島を経て日本へ伝わり、日本の風土と植物繊維、技術、美意識の中で和紙として発展していく。
したがって、和紙の歴史を考えることは、日本の紙づくりだけを見ることではない。人類が記憶を残し、知識を伝え、祈りや美を形にしようとしてきた長い歩みの中に、和紙を位置づけることである。
紙への道とは、記憶を形にするための人間の知恵の道であり、その先に阿波和紙を含む日本の和紙文化がある。
阿波和紙を学ぶことは、一地方の工芸を学ぶだけではない。人類が記憶を残し、自然の繊維を用い、生活と信仰と美を一枚の面に託してきた歴史を学ぶことでもある。
この「紙以前」の歩みを踏まえることで、次に見る中国の紙の成立、そして日本の和紙、阿波和紙の意味がより深く理解できる。
紙が紙と呼ばれるまでの素材を下記の表にまとめる。
| 素 材 | 紙に似ている点 | 紙と違う点 |
| パピルス | 薄い・書ける・巻ける | 繊維を水中でほぐして漉いたものではない |
| 羊皮紙 | 丈夫・両面に書ける・冊子にできる | 動物皮を加工したもの |
| 樹皮布・樹皮紙 | 植物繊維を叩いて薄い面にする | 水中分散・抄紙とは異なる場合が多い |
| 布帛 | 軽く、巻け、文字を書ける | 織物である |
| 絮紙 | 繊維を薄く広げる点で紙に近い | 絹繊維中心で、過渡的素材 |
| 蔡倫以後の紙 | 軽い・薄い・大量生産可能 | 現代的な意味での紙に近い |
- 【参考文献】
- 印刷文化史 印刷・造本店出版の歴史
- パピルスが伝えた文明P26
- 木簡・竹簡の語る中国古代史
- 印刷という革命 ルネサンスの本と日常生活 アンドルー・ペティグリー (著), 桑木野 幸司 (翻訳) 白水社
- 紙と羊皮紙・写本の社会史 箕輪成男 出版ニュース社
- 樹皮布印文陶興造紙術発明 凌純聲著
- インドネシアは樹皮布の宝箱 坂本 勇
- PaperMaking, Dard Hunter
- 佛教語大辞典』(中村元),東京書籍 1975
- 『仏教文化大事典』,金岡秀友・柳川啓一編,1989,
- http://ja.wikipedia.org/wiki/竹簡
- http://en.wikipedia.org/wiki/Amatl
- https://ich.unesco.org/en/RL/barkcloth-making-in-uganda-00139 ,
【ライスペーパー 参考文献】
台湾通草紙:財団法人樹火紀年紙文化基金会(2006.5)
台湾紙紀行:小林良生(1997.10.31 百万塔 第98号)
ライス・ペーパーと誤解された通草紙:小林良生(2006.10.31 百万塔 第125号)
カミヤツデと蓪草紙の調査顛末記:川床邦夫(1999.2.25 たばこ史研究No.67)
紙のおはなし:原 啓志(2002.2.20 日本規格協会)
[1] 又はインペリアルペーパー
[2] https://ich.unesco.org/en/RL/barkcloth-making-in-uganda-00139 , https://search.worldcat.org/ja/title/933520702

