明治期の川田和紙との再会-グラスゴー訪問調査記

はじめに


四十年以上前、紙漉きを始めた当初に、後の和紙会館館長である故・宇山清人氏とともに、町内の和紙関係資料を探してフィールドワークを行ったことがある。当時、紙に関する資料はほとんど存在せず、大正期から昭和期にかけて使われた紙漉き道具程度であった。これらは後に徳島県指定の有形文化財として保管・展示されている。

明治初期の原田家に残された雁皮紙(吉野川市有形文化財、令和三年
阿波和紙伝統産業会館保管)

ただ、川東の原田家に、明治初期の万国博覧会や内国勧業博覧会に出展した際の表彰メダルや表彰状、さらに雁皮紙の現物が残されており、これらは、後に和紙会館設立後に開催された「川田和紙の歴史展」で展示されたが、その後は特段注目を集めることはなかった。

しかし、原田家に残されていたこれらの資料は、和紙文化を物語る重要な証拠であり、より公的に価値づけされるべきであると考え、原田家当主・原田宗矩氏と相談のうえ、吉野川市文化財審議会を経て、令和3年に正式に文化財として指定された。名称は「阿波手漉き和紙万国博覧会及び内国勧業博覧会出展関連資料」である。


グラスゴーへ向かうまで

そもそものきっかけは、久米康生氏の著作の「和紙  多彩な用と美」にあった。同書の「第八章ウィーン万国博覧会に出展の和紙」と「第十二章グラスゴーでの保管の和紙」の項に、明治11年にグラスゴーのケルビングローブ美術館に文物交換の一環として送られた雁皮紙の記述がある。そこには、高尾高三郎氏および原田虎蔵氏が抄造した雁皮紙が含まれていると記されていた。


「造紙説 下巻」阿波 雁皮紙製造の発端、
国立国会図書館蔵

さらに、小杉榲邨の蔵書『造紙説』下巻には、「阿波國雁皮紙製造の発端」と題する一節があり、川田での雁皮紙の起源が記されている。それによれば、文化三年(1806)に小原俊造が麻植郡川田村の住民・高尾熊七に技術を伝え、その孫・浅次が完成させたとある。さらに、製造工程や使用する道具類の詳細が記されており、まさに今に伝わる雁皮紙製法の貴重な「取扱説明書」と言える。


この『造紙説』は、明治6年のウィーン万国博覧会に際して政府が全国から集めた紙製品の解説書として作成されたものである。そう考えると、グラスゴーに残る雁皮紙と『造紙説』に記された製造情報とは、単なる偶然の一致ではなく、明治初期日本における和紙の海外紹介と技術の輸出という文脈の中で理解すべきものである。

ただ最後に残った疑問は、手元にある雁皮紙と、グラスゴーで保管されている雁皮紙が本当に同一のものなのか、文献上の一致だけでは、もやもやしたものがあった。高齢になってからの海外渡航に賛同する声はほとんどなかったが、それでも、原田家の資料、久米康生氏の著作、小杉榲邨の蔵書『造紙説』を目の前に置いて何もしないわけにはいかなかった。確証たる先人の残した和紙がグラスゴーにあるのである。

さらに背中を押してくれたのが、イギリス・サセックスのWest Dean collegeでの紙漉きと藍染のワークショップの招聘であった。今行かなくていつ行くのか。二つの好機が重なり、念願のグラスゴー訪問が実現した。

なお、グラスゴー博物館のホームページには、「Japanese Government Gift 1878」と題されたコレクションとして、1878年11月に日本政府から寄贈された明治期の美術・工芸品1150点が収蔵されていることが記されている。陶磁器、漆器、金属器、織物などに加えて、500点以上の紙標本、さらに東京・広島から寄贈された52点の希少な雁皮紙が収蔵されているという。この交換の背景には、東京大学工学部のロバート・ヘンリー・スミス教授の働きかけがあったとされる。

グラスゴーで出会った明治の川田和紙

2025年5月18日16時過ぎ、ヒースロー空港に到着した。日本人の姿はほとんどなく、というより総じて東洋人がいない。後々分かるのだが円安の影響なのか、ポンド高の影響なのか。翌日の夕刻にスタンステッド空港からグラスゴーに向かう予定であったため、空港近くのホテルに一泊した。

19日午後、グラスゴー空港に到着し、2泊滞在予定のホテルにチェックインした。翌20日午前10時の訪問予約に合わせ、15分前に到着するようタクシーを手配した。

道中、運転手から「イギリスは4つの国から構成されている」「グラスゴーは工業都市として発展した」などの話を聞きつつ、約30分余りで目的地のThe Burrell Collection, Glasgow Museums Resource Centreに着いた。受付で訪問を申し出ると、少ししてキュレーターのDr. Yupin Chun氏が出迎えてくれた。

挨拶もそこそこに研究室に案内された。大きい空間に北面に窓が一面にあり、十分な採光がある部屋である。その空間に所狭しと並べられた明治期の和紙の数々に圧倒された。

Glasgow Museums Resource Centre 研究室

その空間と先人の作った150年あまり前の和紙が遠く離れたこの地で大切に保管されている。

その光景を前にして、その雁皮紙の向こうに両手を広げた原田虎蔵さんを見たような錯覚を覚え、抑えようのない感動がこみ上げてきた。

しかも、収蔵されている全和紙を、見やすいように状態で並べてくださっていた。日本からの珍客である私に対してDr. Yupin Chunは実に丁寧に対応してくれた。

過去に日本から数名の調査者が訪れており、その一人に久米康生氏が含まれていることから、Chun氏は久米氏からの手紙を元に説明してくれた。当時の記録は久米先生とは何度かのやり取りをしてほぼ解明されていると感じた。久米氏の著作に書かれている内容は、こうした往復の中で確かめられた知見をよく反映しているのだろう。Chun氏から資料として頂いたリストはすでにデータベース化出来ていて、ホームページ上で公開されていることを知った。そのうえで本調査では、資料番号、産地表記、色調、厚み、質感、保存状態に注目して観察を行った。


雁皮紙を前にして生じた疑問

すでにデータベース化された和紙リストを写真付きで提供してもらい、雁皮紙番号1~5は高知県・高尾高三郎、6~8は同県・原田虎蔵の名が記されていた。どの紙も、経年変化というよりも使用感があり、各地を巡った歴史を感じさせるものであった。 ただし、和紙会館で保存されている雁皮紙と比べると、全体的に「ぽったり」とした厚手であり、色も深緑、茜色、深い山吹、藍染、鳥の子色など多彩 である。その質感は、**兵庫県宝塚・名塩の「間に合い紙」**に近く感じられた。

雁皮紙、高知県、高尾高三郎、原田虎蔵の名前が見える

手袋越しではあったが、一枚一枚を手に取り感触を確かめようと試みた。しかし、「厚みと柔らかさを持ったこの紙が、本当に雁皮紙なのか?」という疑問が残った。溜漉きにしては質感が異なり、雁皮以外の繊維が混抄されているのかもしれない。または、陶土などを混ぜた「土入り紙」のような肌理の細かさを見せており、想定外の出会いであった。

過去の文献でも雁皮の厚葉は薄い雁皮と違いふっくらとした感触で表現している文面も見受けられる。薄い雁皮紙だけを作っているとこの厚葉の感覚が異質に感じるのだろうか。今後は、現物のさらなる比較検討や、必要であれば繊維組成に関する調査も視野に入れるべきであろう。もしそれらの調査をもとに再現可能であれば再現を試みたいと考えている。

他のリストには、現在の和紙産地とは異なる地名も見られた。岐阜県、滋賀県、広島、熊本など、現在は雁皮紙の産地として知られていない地域が含まれていた。静岡県に見られる「蕘花紙」はおそらく熱海産であろう。一方で、福井県や高知県といった現代の主要産地の名がないのは興味深い。 雁皮紙以外にも千代紙や染め紙、墨流しなどあり、想いを馳せるように一枚一枚手に取り、確認していると時間が過ぎてゆくのがわからなくなっていった。

現地確認の意義

今回、グラスゴーで現物資料の所在と保存状況を確認できたことの意義は大きい。

第一に、川田和紙が明治初期にすでに国際的な文脈の中に置かれていたことを示す具体的証拠を得たという点で大きい。とりわけ、旧川田村で漉かれた雁皮紙が、国内の博覧会出品にとどまらず、海外の博物館に文物交換資料として伝来している事実は、地域の手工業史にとってきわめて重要である。

第二に、現物資料と文献資料とを相互に照合できる可能性が高まった点にも意味がある。雁皮紙の実物が残り、しかもそれが『造紙説』のような記述資料と並行して検討できるのであれば、川田和紙の技術史、流通史、さらには近代日本における地域産業の対外発信のあり方を、より具体的に復元することが可能になる。

第三に、この資料群は単なる「古い紙」ではなく、地域と海外とを結んだ文化交流の痕跡として評価されるべきである。明治初期、日本は博覧会や文物交換を通じて自国の産業・文化を海外へ紹介していったが、その中に川田和紙が含まれていたことは、地方の一産業が近代国家の文化表象の一端を担っていたことを示している。

今回の調査によって新たに見えてきた課題

今回の現地確認によって、資料の所在と保存状況を確認できた一方で、新たな研究課題も浮かび上がってきた。

確かに、静岡から九州にかけての花崗岩土壌地帯は雁皮の生育に適しており、原料が取れれば紙漉きは可能である。需要の高まりとともに産地が一時的に拡大した可能性は十分に考えられる。

一つの契機として想定されるのは、江戸末期の開国と明治期の富国強兵策による輸出拡大である。藩政時代における仙台藩・島津藩の異国との交流は開国を促進し、明治維新を経て輸出品の需要が拡大した。特に、薄葉紙を中心とした謄写版原紙やコピー用紙の輸出が進んだ。

しかし、それ以前、江戸中期から明治維新にかけてなぜ各地で雁皮が採取され、雁皮紙が作られたのか? その用途が気になるところである。たとえば、熱海では柴野栗山の指導で雁皮紙の製造が始まり、那智勝浦では山林保護まで行って雁皮を管理していたという。こうした事例を見れば、単に近代の輸出需要だけでは説明できない、より長い文化的・実用的需要の存在があったはずである。

平安時代の貴族社会や、江戸時代の文人墨客のあいだで雁皮紙の需要があったことは確かである。しかし、それだけで各地の生産を支えるだけの需要が本当にあったのかについては、今後さらに調査を進める必要があると強く感じている。

おわりに

今回のグラスゴー訪問は、単なる海外調査ではなく、明治期の川田和紙と再会する機会であった。地域に残された資料を見直し、その延長として海外に伝来した実物を確かめることによって、川田和紙の歴史は地域内部の記憶にとどまらず、国際的な交流史の中へと位置づけ直されることになった。

今後は、ケルビングローブ博物館所蔵資料の詳細な調査を進めるとともに、『造紙説』その他の関連文献との照合を通じて、川田和紙の近代史をさらに具体的に描き出していく必要がある。また、こうした成果は、吉野川市や徳島県における地域文化の再評価のみならず、グラスゴーとの文化的連携を考えるうえでも重要な基盤となるだろう。

明治六年のウィーン万国博覧会に出展された旧川田村の雁皮紙が、いまなおグラスゴーに残されているという事実は、それ自体がひとつの歴史である。そして、その歴史を現在の私たちがどのように受け止め、どのように未来へつないでいくかが、いま問われているのである。

最後に、Glasgow Museums Resource CentreのDr. Yupin Chunに、期待を上回る歓待とご厚意をいただいたことを、ここに記して感謝申し上げたい。

【参考文献】

  • 国立国会図書館蔵:「造紙説」
  • 久米康生著:「和紙  多彩な用と美」
  • 小野文子、信州大学教育学部紀要:グラスゴーと日本の物品交換とその背景について
  • 熱海町誌
  • 関義城著:手漉紙の研究

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