第3回 雁皮紙の歴史をたどる
―斐紙・阿波讃岐・万博・近代輸出へ
雁皮の採取や原料確保の問題を考えていると、そもそも雁皮はいつ頃から紙の原料として用いられてきたのか、また阿波や讃岐がその中でどのような位置を占めていたのかを、あらためて考えたくなります。
現在の雁皮をめぐる問題は、目の前の採取や生産だけで完結するものではありません。山に自生する雁皮を見つけ、採り、運び、紙にしてきた長い歴史の上に、今日の紙漉きがあります。文献をたどり、地域の古老の話を聞いていくと、雁皮はかなり早い時期から製紙に関わり、阿波・讃岐もまた、その供給と利用に深く関わった地域として見えてきます。
雁皮がいつから製紙に使われ始めたかを断定することは容易ではありません。製紙技術は中国から伝わったものとして理解されることが多い一方で、雁皮を日本固有の植物とみる考え方もあります。そのため、伝来した製紙技術の中で、日本に自生していたガンピ属植物が、原料として取り入れられ、利用法が工夫されていった可能性は十分に考えられます。
雁皮は繊維が細く、紙にすると緻密で光沢のある表情を生みます。また、ヘミセルロースを比較的多く含むことから、粘剤の利用が十分に確立していない時代には、紙料として扱いやすい性質を持っていた可能性もあります。こうした特質が、古い時代から雁皮が紙料として用いられてきた理由の一つであったのかもしれません。
正倉院文書には「斐紙」の名が見え、少なくとも奈良時代には、雁皮に関わる原料または紙が認識されていたと考えられます。古くは「斐」と呼ばれる植物があり、これを製紙原料として用いる際に「斐麻」と呼んだとも考えられています。ここでいう「麻」は、必ずしもアサやオそのものを指すのではなく、製紙に用いる繊維原料を広く表す言葉であったようです。奈良・平安期には楮なども「紙麻」と呼ばれていました。
そう考えると、「斐紙麻」や「斐麻」といった記録は、雁皮が古代国家の製紙制度の中で、一定の位置を占めていたことを示すものとして読むことができます。
このことは、阿波・讃岐との関わりを考えるうえでも興味深い問題です。讃岐では雁皮を「ひよ」と呼び、当地でも讃岐山脈で採取していた人々が「ひぼ」などの名で呼んでいたことを耳にしてきました。今回の調査でも、讃岐山脈の阿波市からさぬき市にかけて古老に話をうかがうと、「雁皮」という名称は通じなくても、「ひぼ」という呼び名は通じる例がありました。
このような呼称の残り方を見ると、「斐麻」という古い言葉が、地域の中で転化しながら長く生き残ってきた可能性を感じます。讃岐山脈は阿波国と讃岐国の境をなす山地であり、現在も雁皮の重要な生育地です。この地域が古くから斐麻、あるいは雁皮の採取地であったとしても、不思議ではありません。
『延喜式』図書寮の記録には、紙麻や斐紙麻が諸国から中央へ貢納されたことが見えます。その中には阿波・讃岐に関わる記録もあり、このことをどこまで具体的な採取地と結びつけられるかは慎重に考える必要がありますが、少なくとも、讃岐山脈周辺から斐紙麻が、また吉野川南岸の山地から紙麻が採取され、中央政府の製紙を支えていた可能性は考えられます。
もしそうであったなら、阿波忌部・讃岐忌部の活動とも無関係ではなかったはずです。雁皮紙の歴史をたどることは、単に古い文献を読み直すことではありません。地域に残る言葉や山の姿の中に、古代の製紙文化の記憶を見いだしていく作業でもあるのです。
近代雁皮紙の展開
――需要拡大と栽培の試み
古代から続く雁皮紙の歴史をたどってみると、近代に入ってからの展開はとりわけ興味深いものがあります。雁皮紙は伝統的な書画用紙として受け継がれただけではなく、用途の拡大とともに新しい需要を生み、地域産業や輸出とも結びついていきました。
しかし、需要が広がれば広がるほど、原料となる雁皮をどのように確保するかという問題は、いっそう切実になっていきます。近代の雁皮紙の歩みは、需要の拡大と原料確保の困難とが、表裏一体で進んだ歴史であったように思われます。 熱海では、山野に生育する雁皮を用いた製紙が行われ、江戸の文人墨客にも用いられたと伝えられています。『熱海町誌』によれば、宝暦八年(一七五八)に熱海を訪れた柴野栗山が、山野の雁皮に着目し、名主今井半大夫に雁皮紙の製造を勧めたことが始まりとされています。


その後、薄葉五雲箋、雪貢箋、松皮箋、海草箋、奉書箋、絵半切、色紙類、罫紙類など、多様な紙が製造されました。販路も地元にとどまらず、江戸日本橋の金花堂をはじめとする商家へと広がっていきました。さらに明治に入ると、雁皮紙布織の製造・販売(図2)も試みられたとされ、雁皮紙が伝統的な書画用紙にとどまらず、新しい用途へ展開していったことがうかがえます。
近代において雁皮紙が大きく注目されたのは、明治初年の万国博覧会を契機として、薄葉紙が輸出産品として評価されるようになった時期でしょう。当地においても、薄葉雁皮紙がウィーン万博の出品目録に見え、『造紙説』下巻(図3)には「阿波國雁皮紙製造の発端」として、その工程と絵図が記されています。

そこには、川田村の紙漉き人である高尾熊七が製造を始めたことが記されており、阿波においても雁皮紙が近代的な物産として位置づけられていたことがわかります。さらに一八七八年には、スコットランド・グラスゴーとの文物交換事業を通じて当地の雁皮紙が海外へ渡り、その後も原田家による博覧会出品や受賞の記録が残されています。
こうした事実は、阿波の雁皮紙が、近代日本の博覧会文化と輸出の歴史の中に、確かな足跡を残していることを示しています。
明治政府が銀行券用紙への利用を試みたことも、雁皮紙の特質をよく示しています。雁皮紙は強度に優れ、独特の光沢と緻密さを備えており、上質な紙を必要とする用途にはきわめて適した原料でした。
問題は、その品質に見合う量を、安定して確保できなかったことです。雁皮は自然採取に頼る部分が大きく、需要が増しても、それに応じて供給を容易に増やせる原料ではありませんでした。近代における雁皮紙の発展が、つねに原料供給の制約と背中合わせであったことは、この点にもよく表れています。
こうした事情を背景として、明治期には雁皮の栽培法を模索する動きも現れました。楳原寛重の『雁皮栽培録』をはじめ、この時期には栽培法を論じた書物がいくつか残されています。当時すでに、自然木としての雁皮に頼るだけでは需要を支えきれないという認識があったことがわかります。
雁皮は栽培が難しい植物とされてきました。それでもなお、栽培の可能性を探り、普及書まで著した先人の試みには、近代の産業的要請の強さが表れています。吉井源太が開発した薄葉大半紙も、海外ではコピー用紙や謄写版原紙として需要を得たとされますが、そうした需要を十分に満たすには、自然採取だけでは量的に追いつかなかったはずです。
もし栽培が大きく成功していたなら、各地に継続的な生育地や産地が、より明瞭なかたちで残っていてよいはずです。しかし現実には、その痕跡を十分に見いだすことはできません。

その後、雁皮紙には三椏の混抄が行われるようになり、品質の変化とともに代用品も現れ、従来の需要は次第に衰えていきました。近代の雁皮紙は、一時的には高い評価と広い用途を獲得しながらも、原料確保の困難という根本的な問題を、最後まで抱え続けたことになります。
雁皮紙の歴史は、優れた素材が高く評価されながらも、山から原料を得続ける難しさに、常に向き合ってきた歴史でした。
阿波の雁皮紙を未来へつなぐためには、紙漉きの技術だけでは足りません。山に残る雁皮の記憶、採取に関わった人々の知恵、地域の土地利用、そして古い文献や製紙資料を、もう一度結び直していく必要があります。
雁皮紙のこれからを考える場所は、紙漉き場の中だけではありません。山と地域社会の中にこそ、その答えを探す手がかりがあるように思われます。
本稿は「雁皮のこと」連載の第3回です。
第1回では雁皮紙を漉き始めた頃の試行錯誤を、第2回では山に残る雁皮の記憶と原料確保の問題を取り上げました。
雁皮紙を未来へつなぐためには、紙漉き場だけでなく、山と地域の歴史を見直すことが欠かせません。
【参考文献】
『熱海町誌』
斎藤要八『熱海錦嚢』
楳原寛重『雁皮栽培録』
山川町史編集委員会『改訂山川町史』
宇山清人『阿波の手漉き和紙』
『造紙説』
雁皮の事 連載
第1回 雁皮の事
第2回 山に残る雁皮の記憶
雁皮関連記事一覧
