華林の谷に立つ

―千年の製紙遺跡を訪ねて―



1 華林の谷へ

江西省高安市周嶺。
九嶺山脈の南東斜面に広がる奥深い山間の谷である。竹林や雑木に覆われた谷あいを小さな渓流が流れ、周囲には静かな棚田の風景が広がっている。現在のこの穏やかな風景からは想像しにくいが、この谷では宋・元・明の三代にわたり製紙が行われていたとされる。

ここにある華林製紙工房遺跡は、竹紙製造の全工程を示す遺構群が確認された例として、中国考古学において極めて重要な位置を占めている。製紙史の研究においてもしばしば言及される遺跡である。

私自身が和紙製造に携わる立場から、古代の製紙工程がどのような空間の中で営まれていたのかを実際に確かめてみたいという思いがあった。ここ数年に渡り文献の調査と現地訪問を繰り返している。安徽省に友人がいることもあり、そこを起点に浙江省、江西省、湖南省などの紙漉き産地を訪ね歩いてきた。

今回もその一連の調査の一環として、華林製紙工房遺跡を訪れることになった。その顛末を記録に残しておきたい。余談ながら、明治期に表された井上陳政著の「清国製紙法」が座右のガイドブックになったことを付け加えておく。

2 南昌から周嶺へ(図 1)
2025年9月、江西省への旅が始まった。
当初の予定では上海虹橋駅から新幹線で南昌へ向かい、翌日に周嶺の遺跡群を訪れる計画であった。友人の周さんが南昌でレンタカーを借り、そこから案内してくれることになっていた。

しかし高松からの春秋航空の出発が一時間遅れた。虹橋駅16時30分発の新幹線には到底間に合わない。やむなく予定を変更し、浦東空港から南昌への最終便に乗ることになった。列車のキャンセル、中国東方航空の予約などで瞬く間に時間が過ぎた。

南昌の宿に着いたのは日付が変わった後である。就寝は午前二時近くになった。

翌朝九時、南昌を出発して高安市へ向かう。南昌から高安までは約一時間半、高安から周嶺まではさらに二時間ほどの道のりである。周嶺は江西省北西部、九嶺山脈南東斜面に位置する山間の村である。周囲は竹林に覆われ、小さな渓流がいくつも谷を刻みながら流れている。こうした水系と豊富な竹資源が、古代の製紙業を成立させた自然条件であったと考えられている。ここ高安市には博物館が有り紙関係の資料があるのではないかと期待していた。しかし、遺跡群は周嶺にあるという。高安から周嶺までの行程を考えるとまず現地へ向かうほうがよいと判断し予定を変更した。

高速道路を降りると、やがて山道に入る。空は青く、山は緑に覆われ風光明媚であるが、舗装は途切れ土道となる。山間には牛が十数頭放牧され、のどかに草を食んでいる。糞尿がそこかしこに転がる牧歌的な風景である。やがて視界が開け、小さな広場に出た。十数軒ほどの集落があるが人影はない。広場の縁には立派な案内板が立っている。その広場の縁に立派な案内板が有る。案内板の説明では心許ないので住民を捜すが誰も出てこないし居ない。案内板の説明だけでは心許ないので住民を探すが、誰も出てこない。車の音が聞こえれば誰か現れるだろうと思ったが、開いた玄関の奥からも人影はない。強い日差しに汗ばみながら、どこか白昼夢のような感覚に包まれる。


仕方ないので、案内図の通り広場の端から下に降りる細道を見つけ下り始める。大石を踏み台状に加工した階段では、高齢者には足元が心許ない。石の階段を下る事200m余り。谷合間で下る。特に変わった風景はない。小川沿いに水田があり中年のご夫婦が刈り取りを始めている。谷間に実った稲穂が揺れているだけである。おそらくこの下に石臼などの遺跡が埋もれているのであろう。その脇に木造の木屋があり紙漉きの工程の道具が並んでいる(写真-2)。入り口の左側に漉き舟が二台、中央には土作りの縦型の乾燥炉、右側に木製の蒸し桶の様な容器が置かれている。

これ幸いに、訪問の目的と希望を話し状況の収集を始める。当然と言えば当然だがこの小屋が1000年以上もの間残るはずがなく、最近設置したのであろうが、設置したままで風雨にさらされて朽ちかけている。この小屋は、発掘調査(2009年)が終わったあと国からの助成金で整備した一部だと説明があった。発掘調査終了後埋め戻し(?)をしている、と言われているが実情はそうでもないような。遺跡の多くは土の中。小さな谷沿にある為、定期的な洪水により陥没。今はその上に稲穂がタワワに生育している。古墳群とは名ばかりで山間の田園風景である。

小川沿いの草むらの中に似つかわしくない街頭状の照明器具が下流に向かって点在している。水臼があるのではないかと期待しながら湿地の草むらを掻き分け、畦道を下る。下る事300m余り、柵があり行き止まり。何のための柵かわからないまま仕方なしに村まで引き返すことになった。徒労感甚だしい。

民宿らしき建屋の前で土地のご婦人と出会い世間話に始まり紙の話をするが 、あまりよくわからない。紙漉きが絶えて久しいのであろう。頃は昼時、昼食を作ることが出来ないか所望する(写真-3)。快く受けてくれる。店もなく、食堂もない。宿もない。と言うより需要がないのであろう。空腹はご馳走である。辛いのはダメ。塩辛いのもダメ。野菜を多くしてくれ。鶏か豚の角煮を入れて、白米はないか?注文の多いお客だ。白米があればご馳走である。小一時間の午餐であった。ビックリはこの山間部でも支払いはWeChat Payであった。

食事が終わればすることはない。支払いを済めせ別れを告げる。午後の気だるい時間を帰りの蛇行道でうとうととし始めると先程の食堂のご婦人より電話があった。御主人が高安から帰ってきた。良かったら話をしたいので帰って来れるか?との事で一も二もなく行きますから待ってて下さいと車を取って返した。

 村の人の苗字は全て胡さんだという。その胡さんの案内で先ほど下った谷沿いを500m余り再び下る。さらに1km余り下る。時間にして1時間。畦道を横切り、雑木を掻き分け、獣道を踏破した頃に樹木の合間にトタン屋根の倉庫風の建屋が現れる。幅10m、長さ50mあまりの平屋である(写真-4)。

内部は深い遺構が露出しており、大小の槽や溝が複雑に連結している。石臼で打った竹を晒し、どのように紙漉きをしたのかこの構造を見ただけでは「天工開物」の世界には入れない。ただ、紙薬(ネリ)を使って紙を漉いたと言われている。どの穴が竹を晒し、どの穴で紙薬を溜めたのか胡さんの説明では不足である。

現地において製紙工程を体系的に説明できる案内板や専門家は不在であり、遺跡の全体像を把握することは困難であった。高安市の担当課を訪問して資料(構図、調査図)を求めたが保存されていなかった。このことは、文献資料に依拠した再構成の必要性を強く示唆している。

帰国後、中国の友人に依頼して発掘資料を探してもらった。王意楽・劉金成・肖発標による発掘報告「江西高安市华林造纸作坊遗址发掘简报」(『考古』2010年8号)を基礎資料として、遺構と製紙工程の関係を改めて検討する必要がある。

このフィールドワークの後、先人の残した「清国製紙取調巡回日記」を読み直した。その当時村人はどのような状況で生活をし、紙漉きをしていたかがその文面から窺い知れ、その記録の一端が日本に残るのに感慨深いものを感じた。

華林の谷はいま、静かな水田の風景の中に埋もれている。
しかしこの谷では、千年にわたり紙が漉かれ、多くの書物を支えてきた。

谷を流れる水は、その営みを知る唯一の証人である。

現地に立ってみると、遺構の多くはすでに地中に埋もれ、現場だけから古代の製紙工程を読み解くことは容易ではない。文献資料と考古学資料を照合しながら再構成する作業の必要性を強く感じた。

華林の谷には、いまも静かに水が流れている。
その水音の中に、かつて紙を漉いた人々の営みが、かすかに残っているように思えた。

(完)


【参考資料】

薮内清編 天工開物の研究 恒星社版

井上陳政著 「清国製紙法」

潘吉星著 中国造紙技術史稿 文物出版社

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